紋谷税さんは入院先の
神奈川県立がんセンターで亡くなりました。
10日前に51歳になったばかり。
入院からわずか半日の、
近しいものにとっては「急逝」でした。
紋谷さんは、このブログを
「きちっと終わりにしたい」
と言っていました。
「もう長い文章を書くのは無理なので、
篠塚さん、聞き書きでお願いします」
と言われていました。
しかし、
その機会が訪れぬまま、
最期のときが来てしまいました。
紋谷さんを応援し、
気に懸けてくださっていた方々のために、
篠塚が彼の最期の様子をここに記し、
ブログの締めとさせていただこうと思います。
紋谷さん、それでいいよね。
長い長い話になりますが、
できるだけ詳細に記したいと思います。
【12月10日(月)】
紋谷さん、誕生日にはしゃぐ
紋谷さんは10月から要介護の認定を受け、
自宅で過ごしていました。
食欲が落ち
(正確には
「食欲は強烈にあるものの、
食べ物がのどを通らない」)、
筋力が落ち、移動には車いすを頼る
ようになっていましたが、
お馴染みの“紋谷節”は健在でした。
「自分は、51歳になってしまうんですかね?」と
自虐的な笑いと共に話していた紋谷さんは、
12月10日(月)にしっかりと誕生日を迎えました。
この日はごく内輪の人間が集まって、
簡単なパーティを開きました。
紋谷さんは後輩の西谷君にカニを買ってこさせ、
「毛ガニはオレのものだ!」と言いながら、
珍しくはしゃいでいました。
(西谷君は、このブログ上で毎年末、
映画評論対談をしていた相方です)
実はその前日にも何人かが紋谷家を訪問。
菊池君一家には「老舗旅館の朝食が食べたい」
と注文し、
しかしわざわざ持参された料理には手を付けず、
冷蔵庫にあった納豆でご飯をおかわりして
食べました。
この2日間に、はしゃぎすぎたのでしょうか。
翌日からの紋谷さんは少々疲れ気味でした。
11日にもらったメールには
「今朝から 苦しい
空気足りない症候群です」
と書かれていました。
【12月16日(日)】
投票を断念
この前日に酸素吸入器を
付けることになった顛末は、
紋谷さん自身がフェイスブックに
投稿している通りです。
そして日曜。
以前から
「今回の選挙はぜひ投票したいので、
介助してほしい」
と言われていた私は
紋谷家を訪れました。
「こんなの付けられちゃったんですよ。
意味あるのかなぁ」
このときにはまだ、紋谷さんは
吸入器を付けたり外したりしていました。
けれど、こんなの無意味に付けるわけがない。
酸素吸入器を外し、
車いすで投票所まで行くのは、
すでに紋谷さんには
かなり勇気のいる行動になっていました。
「今は、ちょっと無理です。
でもギリギリまで様子を見たいので、
時間をください。
で、その間、篠塚さんは
『みんゴル』をやってください。
お願いします」
よくわからないのだけれど、
11月の後半から、紋谷さんはやたらと
『みんなのゴルフ6』を
やりたがるようになりました。
発売前にAmazonに予約し、
それが発売日に到着しないと
私をゲーム屋に走らせ。
最初は対戦モードで遊んでいたのですが、
この頃には、もうゲームをするのも
つらい状態のようで、家に行くたびに
「篠塚さん、『みんゴル』お願いします」
と言っていました。
ええ、誕生日にもやらされました。
17時。紋谷さんは、
「ちょっと自信がないので、
投票はやめにします」
と言いました。
「その代わり、篠塚さん、
すき焼きを作ってください」
とのこと。
「高級な肉をお願いします。
ただ僕は赤身が好きなので、
あまりサシの入っていないものを」
…そんな高級牛肉、あるのかよ。
しかも近所のスーパーに。
とにかく材料を買いそろえ、
冷蔵庫にあったすき焼きのたれを
「これを使えばいいですかね」と差し出すと、
ペロリと味見した紋谷さんは
「ダメですね。
酒と砂糖と醤油を入れて、
好みの味にしましょう」
と言います。
コショウだ、七味だ、なんだかんだと
注文されるたびに私は台所へ取りに行き、
ベッド横のテーブルに運びます。
そうやって立ったり座ったりしていると、
紋谷さんは
「篠塚さん、落ち着いて
ここに座ってください」と怒ります。
…自分が取ってこいって言ったくせに。
出来上がったすき焼きの、
焼き豆腐と肉を一口だけ、
紋谷さんは食べました。
【12月18日(火)】
アロママッサージを堪能する
この日は、私と後輩の鈴木伸子とで
紋谷家に出かけました。
紋谷さんの「背中を押してください」は、
すでに見舞客が最初にお願いされる
定番となっていましたが、
今思うと、紋谷さんの肺は、
すでにマッサージなどの刺激を与えないと
呼吸運動ができなくなっていたのではないか
と思います。
朝、起き抜けの呼吸の苦しさを、
紋谷さんはフェイスブックで何度も書いています。
誕生日前後から、呼吸を確立するのに
午前中一杯を要する日々が続いていました。
そしてこの火曜日は、
14時過ぎまでまともな会話ができない状態でした。
紋谷さんは、
「昨日、一昨日は、苦しくて死ぬかと思いました。
でも今朝は、あまりの苦しさに、
もう死にたいと思いました」
と、あとでぽつりと言っていました。
そんな状態の紋谷さんを、
私と鈴木伸子は交替でマッサージし続けました。
鈴木伸子がアロマオイルを持参していたので、
背中だけでなく手や足まで、
紋谷さんは全身から芳香を
漂わせる病人となりました。
体調が回復した紋谷さんは、
鈴木伸子に向かって、
普段めったに話をしない
自身の大学時代の様子を語りました。
「立教大学に落ちたことで、
僕の人生は変わったんですよ。
浪人して國學院へ入って、
でもほとんどアルバイトに
時間を使っていたなぁ。
3年生の時に、ヤミ聴講生として早稲田へ行って、
『この先生の授業を受けたい!』という
心理学の教授に出会いましてね。
大学を卒業するのは親との約束だったので、
4年生の時には金と知恵を使って
『いかに授業に出ずに単位を取るか』を実践し、
受験勉強に集中しましたよ」
それから入学、退学、就職、退職、
そしてリクルート入社…
私も、まとめて聞くのは初めての、
長いモノローグでした。
夜には、
「ドライカレーを作ろうと
思っていなかったけれど、
結果的にできてしまったドライカレー」
を作れ、と言われました。
北海道から送られてきた
ジャガイモもいっしょに炒めてほしい、
とのことでしたが、指定されたジャガイモの量が
思いのほか多かったので別々に炒めたところ、
「これは、私がお願いしたものとは、
違いますよね」と言って、
箸を付けませんでした。
…ったく、このわがままオヤジめ。
その代わり、付け合わせに作った
サラダを珍しくバリバリと食べました。
実は、数日前から紋谷さんは
自力でトイレへ行くのが難しくなっていました。
ベッドのすぐ横に置いた車いす、
そこに乗り移ることですら大仕事で。
だから、私たちがいる間に
トイレに行っておきたい。
何かあったら介助をしてもらいたい。
「野菜を食べれば、お通じに
いいんじゃないかと思って」と紋谷さん。
…そんなに急に、効くはずもないのに。
かつてはほとんど見せなかった、
こんなお茶目な姿を、
晩年の紋谷さんは
よく披露するようになっていました。
寂しがり屋で、怒りっぽくて、甘えん坊で。
物心が付いた頃から徹底した
“格好つけ屋”だった紋谷さんとしては、
病気のために格好をつけ通せなくなったとき、
多くの人に
「お見舞いになんて来なくていい」
と言い渡した。
それもまた、彼なりの格好つけ
だったのだと思います。
結局、その夜は終電ギリギリまで
紋谷家にいました。
「篠塚さん、泊まっていってください」
と、紋谷さんは何度も言いました。
この時点で、彼は自分の体調に対して
かなり大きな不安を感じていたのだと思います。
【12月19日(水)】
紋谷さん入院す
様子が気になった私は、
朝の10時に紋谷さんを訪ねました。
彼の最後の5年間を
いちばん近くで支えた
恋人・長浜美和さんの出勤と入れ替わりで、
私は紋谷さんに付き添いました。
その日はたくさんの人が来ました。
午前中には酸素吸入器のメンテナンス業者さん。
続いてマッサージの先生。
午後には紋谷さんお気に入りの看護師さん。
しかし、紋谷さんは非常に苦しい様子で、
「水を、ください」
「背中を、お願いします」
といった短い会話しかできない状態でした。
ただ、看護師さんが来る前には
歯を磨き、服を着替えました。
こんなときでも紋谷税は紋谷税でした。
夕方には家事をやってくれる
ヘルパーさんが来ました。
「紋谷さん、ヘルパーさんに
やってもらうことはありますか?」
とたずねると、彼は苦しげに息をつきながら、
「シュウマイと、春巻を、
作ってもらってください」
と言いました。
…こいつ、絶対に食べないよな。
そう思いましたが、
言い出したら聞かない男ですので、
すぐにネットでレシピを調べて、
私は材料を買いに走りました。
ヘルパーさんに調理をお願いしている最中。
紋谷さんが私を手招きします。
「なんですか?」とそばに行くと、
荒い息をつきながら、
「春巻きの、具を炒める、
ときには、片栗粉を、
入れてください」。
…最後の最後まで、食へのこだわりを
貫き通す紋谷さんでありました。
そして。
「紋谷さん、できましたよ!」
「私は、いりません。篠塚さん、食べてください」
…やっぱりな。そうだと思ったよ。
それでも紋谷さんは、
人がモリモリと食べる様子を見ることで
自分の食欲を満足させる
ような面もありましたので、
私は彼のそばで食べました。
おいしかった。
その日の紋谷さんは、
それまでとは明らかに違っていました。
夕方になっても、夜になっても
呼吸を確保できません。
「紋谷さん、これはそろそろ、病院じゃないかな」
私は言いました。
22日の土曜日には、
静岡からお母さんと弟さんが来る。
翌週の25日には、月例検査のために入院する。
それまでは、なんとか自宅でがんばりたい。
それが紋谷さんの決めたスケジュール。
頑固な彼としては、よほどのことがなければ、
それを変えたくない。
「薬を、飲みますから。
これが効くか、どうかで、
判断、させてください」
夜の8時頃、
彼はそう言って“麻薬”を飲みました。
私は背中をさすり続けます。
「どうですか?」
30分ほど経って、私は彼にたずねました。
「9時まで、待って、ください」
なぜ9時なのかな。
その答えは、9時になるとわかりました。
美和さんが帰ってきたのです。
美和さんに今日一日の様子を話し、
「病院に入ったほうがいいと思う」と伝えます。
彼女も同じ意見でした。
「朝起きると、もしかしたら
モンちゃんが死んでいるんじゃないかと思って、
怖い。
毎日どんどん悪くなっているし、
私も篠塚さんもいないときに
何かあったらと思うと…」
それを聞いて、紋谷さんは言いました。
「入りますか」
訪問看護の医師に電話をし、
往診の末、がんセンターへの入院が決定。
自家用車での搬送は「危険だ」と
医師に言われ、救急車で病院へ。
この救急車内が、修羅場でした。
救急車は「揺れる」とは聞いていたものの、
これほどとは思いませんでした。
揺れると、人はそれに耐えようとして
体に力を入れます。
その「耐える」という動作が、
紋谷さんにはとんでもない運動なのです。
だってその日は、
コップを持って口に運ぶことすら大変でしたから。
水を飲むために、
一瞬呼吸を止める
(私たちは、そんなことを意識しませんが)、
それだけで「ハア、ハア」と
軽い呼吸困難になっていましたから。
揺れの中で、紋谷さんは呼吸ができず、
パニックになります。
「背中を! 背中を!」
私と救命士は、揺れに耐えながら
紋谷さんの背中をさすり続けました。
20分ほどで病院に着き、
病室に入ってからも、
発作のような呼吸困難は続きました。
夜勤の看護師さんや当直医があたふたと動き、
痰を吸引し、
「どうですか、楽になりましたか?」
などとしきりに声をかけます。
紋谷さんは、苦しい息で言いました。
「すみません。放っておいて、ください」
私も同意見でした。
紋谷さんは、周囲でバタバタと
動かれる状況を非常に嫌います。
それ以上できる処置もないので、
皆さんに退室いただき、
私と美和さんが交替で背中をさすり続けました。
11時半頃、紋谷さんは
その日最も良好な状態になりました。
息は荒いものの、
長い会話もできるようになったのです。
遅い時間でしたが、弟の稿さんに電話を入れ、
「少し早く入院することになったけど、
心配は要らない。22日は、家でなく
がんセンターに来てほしい」
と直接伝えました。
その後、
「携帯を充電するのに電源が遠いから、
明日は延長コードを持って来てほしい」
とか
「裸足で救急車に乗ってしまったので、
つっかけを持って来てくれ」
とか、
ごくありふれた他愛ない会話をし、
日付が変わったのを契機に、
私と美和さんは病院を辞去いたしました。
「じゃ紋谷さん、
また明日の午後にでも来るから」
と言い残して。
【12月20日(木)】
逝去
マッサージ続きで疲れたのと、
入院させて少しほっとしたこともあって、
その夜は少し多めに酒を飲み、
翌日の目覚めが遅くなってしまいました。
せっかちな紋谷さんのことだから、
「延長コードが遅い!」とか怒ってるだろうな、
なんて思いながら出かける支度をし、
まさに出かけようとした12時過ぎに、
病院から電話が入りました。
「紋谷さんの意識レベルが低下しており、
危険な状態です」
え? どういうこと?
「あの、それはつまり、
いわゆる危篤ということですか?
亡くなりそうだ、と?」
「お時間までは言えませんが、かなり危険かと…」
聞きたいことはたくさんあったけど、
とにかくすぐに病院へ向かいました。
病院のある二俣川駅までは、
私の家の最寄り駅から約10分。
落ち着け。タクシーよりも、
絶対に電車が早い。落ち着け。
あ、そうだ、メール。
メールを送らなきゃ。
…数ヶ月前、私は紋谷さんから
ひとつの依頼をされていました。
「篠塚さん、もし私が
“いよいよ”というときになったら、
この文面を、この10人にメールしてください。
他には一切、知らせる必要はありません」
ジリジリと電車を待ちながら、
少し震える手で保存していた
メッセージを呼び出し、送信。
それは、こんな文面でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
もんや です
このメールは 僕がいよいよとなった時に
僕の死に目に会いに来てください
というメールです
今が朝なのか深夜なのか
僕が一体 今どこにいるのか
僕自身の意識があるのかないのかも
まったくわかりません
ただ 死ぬ間際に
僕に多少なりとも余力があったなら
最後に顔が見たいなぁ
という方々に 勝手に送っています
皆さんのアドレスと
この文面はもう暫く前に
篠塚さんに託していました
恐らくかなりの確率で
行けないってタイミングなのでしょうが
たまたまってこともありましょう
ちなみに 飲み会のお誘い連絡ではないので
行けるも行けないも 返信は無用です
いらしてくれるなら
それまで頑張って生きてますので
よろしくお願いします
・・・・・・・・・・・・・・・・・
二俣川駅からタクシーに飛び乗り、
入院しているB棟3階へ駆け上がると、
ナースセンターの看護師さんが
「あちらです」と、
昨晩とは違う部屋を指さします。
病室へ入ると、
若い看護師さんが私の顔を見て言いました。
「ああ、篠塚さん。
今、お亡くなりになりました」
本能的に時計を見る。
13時6分。
紋谷さんの傍らに
置かれていたカルテには、
死亡時刻13時2分と書かれていました。
ごめん、紋谷さん。
間に合わなかったよ。
オレっていっつもこうなんだよなぁ。
「お耳は最後まで生きているそうですから、
ぜひ声をかけてあげてください」
看護師さんはそう言うけど、
今さらかける言葉なんかない。
「紋谷さん…」
それだけ口にして、
紋谷さんの手を握りました。
まだ温かくて。顔だって、
いつも寝ているときと同じで。
なんだか、いきなり「フッ」と
息を吸って起き上がるような
気がしてなりませんでした。
そのうち、手が、
どんどん冷たくなっていくのです。
ああ、紋谷さんの魂が抜けて行く。
後から聞いた話をまとめます。
私たちが病院を出た後、
夜中の2時過ぎに、マッサージの先生が
「なんとなく気になって」
紋谷さんを訪ねたのだそうです。
「苦しそうな状態で、
『背中を押してください』と言うので、
しばらくマッサージしていたんですよ。
そのうち発作のような状態になって、
『看護師を呼んでください』と言われて
ナースセンターへ飛んでいき、
あとは痰の吸引など処置が始まったので、
私はそのまま帰りました」
とマッサージ師さん。
その後、かなり苦しい状態が続いたため、
医師が「眠れるように」と薬を処方したそうです。
「翌朝に回診した際には、
呼びかけに反応していらっしゃったのですが」
と担当医。
その前後に、美和さんが
出勤前に病室を訪れたそうです。
「つっかけを届けて、
眠っていたので
『モンちゃん、行ってくるからね』
と声をかけて出かけました」
と美和さん。
結局、紋谷さんは目覚めることなく、
酸素不足に苦しめられることもなく、
徐々に生体反応が下がり、
文字通り「眠るように」亡くなったのでした。
【その後】
あのタイミングで入院させたのは、
果たして正しかったのか。
せめて救急車でなく、
自家用車で静かに
運んであげるべきではなかったか。
夜中の薬の投与は、
もう少し待ってもらうべきではなかったか。
…多くの遺族が感じるであろう
「悔い」を、私と美和さんは感じていました。
末期がんで、2012年の初めには
「あと1〜2ヵ月で普通の生活は難しくなる」
という実質的な余命宣言を受け、
日々衰えていく姿に身近に接し…
もう充分に覚悟はできていたはずなのに、
それでも最期は「突然」でした。
けれど、複数の看護師さんから
「紋谷さん、『最後はこの病院で死ぬよ』
っておっしゃっていたんですよ」
と聞かされ、
主治医から
「正直、2012年の正月には
紋谷さんが緊急搬送されてくる
と思っていました。
この状態で、よくぞ頑張りました」
と言われあのまま自宅にいても、
遅かれ早かれ最後の発作はやってきたでしょう。
おそらく、数日中に。
そのとき、そばに誰かいるとは限らなかった。
ギリギリまで自宅で過ごし、
これしかないというタイミングで
病院に運ばせ、
最短時間を病院で過ごして、
すっと去っていった。
さすが紋谷さんだ。
もっとも、本人は、
もう少しだけ生きるつもりだった
と思いますが。
彼について語り始めると、
際限がありません。
おそらく多くの方も同じだろうと思います。
本当は、こうして、
さも自分だけが頑張って
最期を看取ったように語るのは、
とてもいやなのです。
実に多くの方々が、
それぞれの立場で紋谷さんに接し、
支え、独自の関係を築いていたことを、
私は知っていますから。
それでも、
「看取り役」を任された者として、
お伝えすべきだと思うことを
書き連ねました。
きっと
「篠塚さん、話、長いよ!」
と紋谷さんは本気で怒っていると思いますが、
紋谷さん、
あんたがオレを選んだのだから、
しかたないよ。
さて。
いずれ時期を見て、
このブログも閉めさせていただくことになります。
何らかの形でアーカイブ化したい
と考えていますが、
どうなりますか。
いずれにしましても、
長い間の応援、
本当にありがとうございました。
私が言うことでもないけれど、
素直にお礼の言えない
男に成り代わって、
深く、深く、感謝いたします。
篠塚義成
なんだか 最近 眠い。
どうにもこうにも眠い。
飼い主が言うには
「この季節は まだ自然界は寝ているのが当たり前で
それを やれ春だ それ新学期だなんて
浮かれているのは 人間だけ
…でも 本来のメカニズムはお休みモードだから
その反動が体に出るんだよ。
だから人間も調子落とす時期だし
…5月病とかその典型だ。
無理して頑張っても、結果はついてこないんだよ。
人間様はみんなまじめだから…なあ。
本領発揮は梅雨明けからで、
今はエネルギーを溜める時期なのだ」
などと わが飼い主にして情けないことを。
このブログも書きたくない。
…などと、
不謹慎なので ワン!
と吠えるも効き目がない。
仕方ないので 僕が書くことになった。
1年ぶりの登場なので、
なにか気の利いたことなど言いたいが、
比較的平和な毎日にとくに不満もなく
毎日だらだらと
「あらあ〜海ちゃん かわいいわねえ〜」
などと 近所の奥さんのご機嫌など
とりつつ暮しているので改めてなにか
…といっても特にはないのです。
それでも、
「おまえは ご飯とボール遊びとおしっこと
ウンチとお散歩と撫でてくれる人さまがいれば
それでいいのか?
人生 それだけか!」
と飼い主に言われ続け
「ほかになにか
犬にとって大切なことなどあるのか?!」
と日々 考えてはいる。
東北の震災のあと、世界のレスキューが
駆け付けている写真を雑誌で見た。
確かフランスだったかのチームは
たくさんの救助犬を連れて来ていて
その犬たちが活躍していた。
なんと僕と同じ犬種だった。
心が動いた。
同じ種類の仲間が
人さまの役に立っているのを見るのは、
誇らしい…反面
ここでこうしてじゃがりこ君を食べながら
雑誌を見ているだけの自分を情けなくも思った。
東京のどこかの倉庫の中に山と止まれた支援物資
届かないまま朽ちてゆく食料…
もったいないなあ〜
美味しそうだなぁ〜
などと、とんちんかんなことを
考えている自分を無き父が見たら嘆くだろうなぁ〜
飼い主から、昔 聞かされた話だと、
父親は山岳救助犬だったらしい。
それもけっこう活躍した
優秀な犬であったようだ…と。
人間は「馬と犬は血統だ」と珍重する。
その意味ではこんな飼い主に飼われなければ…
僕だって…と思わないではない。
むしろ、今からでも
「行け!」と言われればその気はある。
本当だ。
血が騒ぐというのは…これだと感じる。
「機会は自ら造り出すもの」
言うのは簡単だ…できないひと
いや 犬もいる。
ここにいる。
気分を変えようと公園に行くと
向こうから “せいな”が走ってきた。
「なにしてるのお〜♪」
土日の昼間には彼女によく会う。
見かけると、嬉しそうに走ってくる。
どうも僕に気があるらしい。
いつか飼い主が
「“せいな”ってどんな字?」と聞いたのだが、
地面に小枝で「聖菜」「清奈」と書いても
「違う!」とだけ
…「静奈か …じゃあ 星名かな?」
と意地になって書いても
…首を縦に振らない
…こういうところがわが飼い主は面倒くさい
…字なんてなんでもよいではないか。
“せいな”も飽きている
…早く僕とボールで遊びたいのだ。
始まったボール遊びはなかなか終わらない
というかぜんぜん終わらない。
子どもと言うのはどういうのだろう
飽きないことにはぜんぜん飽きない。
同じことを同じように、
ケラケラ笑いながら続けるこの根気
…さすがのボール好きの僕も参った。
渡せば 投げられる
…そのうちベンチの下に逃げ込んで
ボールを彼女に渡さないようにするのだが、
彼女は、いつまでも僕を覗き込んで
「ねえ〜ボールちょうだい?」と諦めない。
「投げられても取りに行かなきゃ良いんじゃん 」
と笑って言うが それは無理なのだ
投げられたら体が…
体が勝手に反応してしまうのだ。
“せいな”はこの町内に半年前に引っ越して来た。
前は団地だったらしい。
今は2階建ての新築。
家には“せいな”が生まれる前から飼っているシーズー犬が2匹。
“せいな”本人には弟なのか妹なのか
まだ赤ちゃんの兄弟がいるらしい。
もしかしたら お休みの日に遊ぶ友達が
まだいないのかもしれない。
そう思うととことん遊んであげたい気もするし
なにより彼女は僕のことが好きなのだから
…とがんばるのだが
…もう無理だ。
ベンチの下から SOSの目線を飼い主に投げる
…と
「じゃあ “せいな”またね」と
やっと解放される。
“せいな”のご両親は 自分の愛娘が
こんな得体のしれないおっさんと
近所の公園で仲良しなのを知らない。
こちらが知らないのだから
向こうも知らないはずだ。
もし、こんな光景を見かけたら
不安がるに違いない。
「だいじょうぶですよ お母さん
…飼い主は胡散臭いですが
僕は立派な血統をもった
どこに出しても恥ずかしくない、
むしろ誇らしい ちゃんとした犬ですから」
たいがにしてほとんどは
目の前の公園で済まされるお散歩が
ごくたまに少し先の森まで行くこともある。
よほど天気がよい時と
飼い主の気分がよい時と
そういう偶然が重なると
ごくたまにある。
小さい旅がめったにないせいか、
森まで片道15分の道行きでも
僕には冒険だ。
電柱がある度に、
さまざまな犬のおしっこの臭いを嗅ぐ。
おそらくはここを散歩コースにしているのであろう
近所の恵まれた犬たちの臭い。
あんまりに頻繁に立ち止まり、
フガフガと嗅ぐので、
飼い主は
「そんなに他の臭いが気になるのか?
嗅いでも仕方ないだろう。
まっすぐ歩け!」と怒る。
仕方ない…たしかに嗅いでも仕方ない
…のだが、そういう性分なのだから仕方ない。
森のスケールは小さい
といっても東京近郊の中では
緑はかなり潤沢にある方だと思う。
それでも、去年の飼い主の田舎などとは
比べるべくもない。
茶畑も田んぼも
…なんといっても
飛び込みたくなるような
川がないのは残念だ。
また夏が来る
あの楽しかった夏
暑いけど楽しい夏…
今年は一緒に帰省できるのかなあ〜。
飼い主は 最近、少し調子が悪いようだ
あまり言うと叱られるので 言わないが、
去年とは体調はあきらかに違うように思う。
それでも、「生きているだけで丸儲け♪」と
散歩しながら歌っている。
たぶん人より神経が鈍いのだと思う。
困ったものだ。
かとおもえば
「お前は あと30年生きろよ!」
などと無茶をよく言う。
ラブラドールがそんなに生きられるわけないじゃないか、
ラブに限らず犬はみんなそうだ。
「…長生きするペットがいいなら
象亀でも買えば?」
と切り返すと、
「あれはダメだ
なんというか“生きる”っう
…やる気を感じない」
そうだ。
小さい森を適当にさ迷う。
「あれえ〜こんなとこにまた家が建っている!?」
とびっくりしている。
たしかに、少し見ない間にまた住宅が増えたようだ。
このあたりは通勤圏なので、人はどんどん増える。
すこしでも土地があれば…
いつの間にか更地となり、
いつの間にか家が建って、
いつの間にか人が住んでいる。
放射能は怖くないのか
もっと田舎に行けよ
田舎は楽しいぞ と思うが。
まあ犬の言うことだから流して欲しい。
「緑が元気になってくると
森がもりもりしてきて
…いよいよ夏だあ〜って
気分になるんだよなあ」
飼い主はいつもこういう
…どこまで夏好きなんだとあきれる。
太陽さえ浴びていればそれでいいという人だ。
ちなみに こちらは あんたの20倍暑いんだ
と言いたくなるが そこまで好きならまあ仕方ない
とひたすら我慢して…もう8年。
前にも言ったが
どんなに暑くてもわが家には
クーラーがないから大変だ。
正確には あるにはあるのだが
10年以上動かしていないから、
動かないまま そのままである。
こういうことを言うと
いまは節電だから…と
話を結びつけてしまいがちだが、
そんなこととは関係ない
「太陽のエネルギーもらって
暑くて 汗をかいて 体の老廃物が出て
…ああ気持ちいい〜」
なんて飼い主は
「エコだの 節電だの
…後付けで したり顔で
うるさいなあ〜 冷房は気持ち悪い、
使わないから灯りは消して、だけじゃん!
別に、仙人の暮らしには
あこがれないけど、もっと裸のままで
いいじゃん!」
という発想でしかなくて
マクロ的にどうしたより
自然に目の前にある
気持ちの良いことを普通にすれば
…ってだけのようで、
いちいち 大げさに言うなよってだけで、
そう考えると 目の前にボールがあるから
それを追っかけてしまう
僕の行動となんら変わりはないのだと
この飼い主に親近感が湧く
…というわけでもない。
さて、散歩もそろそろ終わりの様だし
…このへんで失礼します。
飼い主に替って書いた割には
思い立ったことを繋げているだけの
感じで申し訳ない。
まあ 犬と言うものはそういうもので
あまり前の話は忘れるし
いま目の前のことに反応してしまう
性分なので、勘弁して欲しい。
去年 ここに登場したあとに
見ず知らずの人何人かから
飼い主の携帯にメールを頂いた。
飼い主も知らない人らしく、…
「こんなメール来たぞ!」と見せられた。
みなさん 無類の犬好きの方で、
なんとなく迷い込んで 見つけられたようです。
「これを機会にお前のサイトとか作るか?
写真集とか …グッズ とか(笑) …?」
その気もないくせによく言うものだ。
そういうありがちが一番嫌いなくせに。
「テーマ次第では面白いかもだぞ。
もうこの辺りとか
うちの田舎じゃ芸がないから。
どこか……そうだ!
八重山の島はどうだ。
世界でいちばんの海だぞ。
あそこで散歩したら
死ぬほど気持ちいいぞ!
ヤギとかいるぞ。
野生のクジャクとか…」
うーん そういうことなら大歓迎だ
…でもヤギってなに?
くじゃくって美味しいのか?
「…うーん でも なあ
画とお前がな〜合わないなあ
…クリームソーダ色の海に
おまえがいてもなあ〜
もっと緊張感あるところでないとなあ
おまえのとぼけ具合に現実感がでないからなあ〜」
緊張感ってなんだ?…
いやな予感がするから…遠慮したい。
それに…僕はとぼけてなんかいない。
これでもまじめに生きているぞ。
よく考えれば飛行機に乗るなんて
考えただけでも無理だ。
ドライブは好きだから
江の島くらいでいいのだ。
江の島万歳!…
… ? 聞いてない?
はあ〜犬の気持ちは伝わらない。
ではまた、夏の盛りでも…みなさんお体大切に。
暑い夏にでも。
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